「月は二度、涙を流す」そのG


第三章
3 三日目

 空は黒と白の絵の具をこぼしたかのように、濁っている。雨が降っていた。鳥の声も草木が風になびく音も、今は雨音に掻き消されている。午前中だというのに、太陽はその欠片すら見せていない。
 望は光の部屋に来ていた。英語の勉強を教えてほしい、という妹の頼みを兄は当然ながら快く受け入れた。
 光は机の前で英語の教科書をしかめっ面で睨み、時折、腹立たしそうに頭を掻く。その様子を何も言わず見守っている兄。室内は雨音ではなく、静かなクラシックが流れている。
「兄さま。ここが分からないわ」
 光は今にも泣きそうな顔で望を見た。望は光のベッドから腰を上げると、教科書を覗き込んだ。微かな石鹸の匂いが、望の鼻孔をかすめた。
「ほら、これは動名詞だから語尾にingをつけるんだよ」
 望が指差す所を、光が眉をひそめて見つめる。しばらく沈黙が続いた後、光はあっそうか、と大きな声をあげた。
「私、国語なら得意なのよ。でも、英語だけは普段使わないからどうしても‥‥」
 謎が解けて緊張が無くなったのか、光はペンで髪の毛を先をいじくりながら言う。もう教科書を見ていなかった。望は小さなため息をつきながらも、ふふっと含み笑いをして光の頭を乱暴に撫でた。光は喉をゴロゴロと鳴らす子猫のように、その行為に身を任せている。
「まっ、誰にでも得意不得意はあるさ。そんなに気にするな」
「兄さまは、何か不得意な教科でもあるの?」
「倫理と心理学が苦手だな。他人の意見はどうも理解出来ない」
 もう自分は人の心を伺おうとは思わない。もう人の生き方など考えない。望はそういう言葉を用意していたが、決して口に出そうとはしなかった。言っても理解出来るとは思えなかったし、何よりも妹にそんな事は言えなかった。
「少し休もうか? 一度飽きるとなかなか勉強なんてはかどらないからな」
「そうね。じゃあ私、紅茶入れてくるわ」
 勢いよく席から立ち上がった光は、嬉しそうな顔をしながら部屋から出ていった。部屋に残された望は、光の残り香を臭ぐように一度思い切り深く深呼吸をすると、再びベッドに腰掛けた。
 まだ室内の残る微かな妹の香り。それは妹だけの香りではなく、おそらく都会でも多くの人が使っているであろう、シャンプーや石鹸の匂いだ。しかし、望にとっては紛れもない妹だけの香りだった。それは、舞夜の香りとは確かに違う。舞夜はもっと甘く粘り着くような香りを持っている。だから、昨日の夜抱いた女は光ではない。あの瞬間が遠ざかってゆく度、それを痛烈に感じ、望は頭にぽっかりと風穴が開いたような虚無感を思わずにはいられなかった。
「‥‥」
 おもむろに胸ポケットから煙草を取り出し、火をつける。
 光が自分の事を「兄さま」と呼ぶようになってから、三年の月日が経っていた。その前までは普通に「お兄ちゃん」と呼んでいた。何故呼び方を変えたのか。それは新しい母のせいもあったが、それよりも望が誰に対しても僅かな距離を置いて接するようになったからだった。母を亡くし、望んでもいない別の母親がすぐに現れ、そして父は憧れの存在ではなくなった。そんな慣れない状態が、望に微かな人間不信を作らせた。意味こそ違うものの、光に対してもそれは同じだった。
 それを感じた光は、人懐っこく「お兄ちゃん」と呼ぶのをやめた。それは望にとって嬉しい事ではなかったが、「お兄ちゃん」と呼ばれるよりも何だか罪悪感のような感情が和らいだもの事実だった。
 煙草が半分程無くなった頃、二つのカップを乗せたトレイを持った光が入ってきた。光は部屋の中に煙草の匂いが充満している事を感じると、目を細めて嫌な顔をする。
「兄さま。あんまり煙草を吸うと体を悪くするわよ」
「ああっ、部屋がヤニ臭くなっちゃうな。今度から光の部屋じゃ吸わないよ」
「‥‥そういう事じゃないのに」
 携帯灰皿に煙草を押しつけると、望はトレイの上のカップを手に取った。白い湯気の沸き立つ紅茶は煙草の匂いとは違い、とても微かで良い香りだった。
「砂糖とかミルク入れる?」
「いや、甘いのは苦手だからいいよ。でも、それは入れすぎじゃないのか?」
 光はスプーン三杯分の砂糖を紅茶に入れていた。光はそうかしら? とでも言いたげに小首を傾げる。その可愛らしい仕草にまた望は含み笑いを漏らす。
 光の大きくて真っ黒い瞳が、窓の外を見たり、自分を見たりする。そして時折小さな口が開き他愛も無い言葉が出てくる。それは全て自分に対する言葉。望は湧いてくる歓喜を顔に出さないように必死に堪えた。それでも、喜びは溢れて止まらない。
 空は濁り、仄かに暗い。明るい室内では、光の顔はより愛らしく見えた。その顔は舞夜では味わえない清々しさを持っていた。周りを明るくするような光の笑み。それに比べて舞夜の笑みは、周囲の明るさを吸い取って美しく見える。
「‥‥兄さま? 聞いてるの?」
「えっ? あっ、ああっ、聞いてるよ。推理小説の事だろう?」
「そう、それでね、犯人は誰だと思う? 私はね、絶対に最初の被害者の母親だと思っていたのよ。だってアリバイが無いのはその人だけだったのよ。でも、犯人は意外に‥‥」
 光の話している内容は殆ど耳に入っていなかった。ただ、光が自分に対して話している、という事がただひたすらに嬉しかった。
「ところで光。学校は楽しいか?」
「えっ? ええっ、とっても。友達もたくさんいるし、先生も優しいし。みんな好きよ」「そうか‥‥」
 屋敷の中での光は全て知っていた。しかし、外の光は知らなかった。望はそれを考える度に嫉妬に似た感情を覚える。光が男に恋をしているのか、もしくはもう誰かのものになっているのか、それは分からなかったが、可能性を考えるだけで胸の奥が痛んだ。
 出来る事ならば、光の全てを自分の物にしたかった。でも、それは出来ない。だから、舞夜を買った。舞夜を抱く事で、全てを手に入れたような錯覚を自分の中で作り出そうとした。
 でも、やはり駄目だ。目の前の光と地下室にいる舞夜とでは決定的に違う事がある。全てだ。細かな仕草、自分の事を大切に思ってくれる気持ち、そして口から出る言葉。やはり偽物などで補う事など出来ない。光を見る程に、望は強くそう感じた。
「でも、兄さまも好きよ」
「‥‥本当か?」
 望はベッドから顔を上げて、光を見つめる。
「当たり前じゃない。だって、たった一人の兄妹だもの」
 光はにっこりと兄に向かって笑顔になる。
 素直に自分を好きだと言ってくれる、その笑顔。でも、自分はそれに素直な気持ちを返す事が出来ない。望は何かを圧し殺すように紅茶を飲み干した。
 いつか。いつか、その笑顔に素直に答えたい。望はそう願いながら、偽りの笑顔を光に送った。


「俺、あの子好きになれない」
 重いため息を宙に投げ出し、真一郎が呟いた。その真一郎の体にぴったりとくっつくような形の恵美が、マリファナの入った煙草に火をつける。
 生暖かそうな雨の粒が、窓にへばりついて幾つも潰れている。恵美の部屋のベッドに寝そべっている二人は互いの顔を見ず、おそらくこの屋敷のどこかにいる望や光、優香も見ているであろう光景を眺めている。音楽などはかかってなく、ただポツポツと雨音だけが不協和音のように響いている。
「光ちゃんに似てるから?」
「それもあるかもしれないけど、何だか目が気にくわない」
「あの目は私も好きじゃないわ。昔を思い出す」
 恵美の手が真一郎の唇をかすめる。真一郎は恵美の指の間に挟まれた煙草をくわえると、大きく煙を吸い込み微かに身震いしながら煙を吐き出した。ハッカの透き通るような感覚が、一瞬のうちに全身に駆け巡る。
「あの子を見てると嫉妬するのよね。あの子、まだ十才かそこらでしょ? もう自分は二度とあの時には戻れないって思うと、何だかやるせなくなってくるのよね。もっとも、私の十才の時なんてろくなもんじゃなかったけど」
 足を折り曲げ、膝の上に自分の垂れた頭を乗せる恵美。艶やかな赤髪が、だらりと下に滴れる。火のついた煙草が音も無く、恵美の隣にある灰皿に落ちる。真一郎の大きな両手が、そんな恵美の肩や背中をさする。
「あんな子供より、お前の方がよっぽどいい女だと思うぞ。って男の俺じゃ、大して癒せてもやれないな」
 自分に対して苦笑いする真一郎。恵美は何かを決意したように大きく一回深呼吸すると、顔を上げ、真一郎の胸に頭を擦り付けた。
「そんな事無いわよ。だって、あなただけだもの。そういう事言ってくれる人。凄く嬉しい」
 真一郎は恵美から顔を背けた。赤くなっている自分を見られたくなかった。しかし、恵美の両手が真一郎の顔を掴み、無理矢理前に向かせ強引に口付けをすると、自然と恥ずかしさも無くなった。口付けの味まで、あの時と変わっていないな、と真一郎は瞳を閉じながら思った。
 いつもの行為、いつもの言葉、いつもの感触。恵美と真一郎は昨日の舞夜とのパーティーの後、食事の準備と掃除以外の時間は全て一緒にいた。何かやるわけでもなく、抱き合っては煙草をふかし、唇を舐め合う。パーティーの惰性のように、そんな事をして時間を費やした。しかし、パーティーの後の何気無い戯れは、二人の絆を強く解れにくいものにさせた。純白の悦、心地好い血の香り、消えゆく命の燈、全てが二人にとって絆という名の糸の繊維一本一本になった。
「ねえ、真一郎」
「んっ?」
「私が一番いいよね?」
「何だよ、それ」
「あの子よりも、優香さんよりも、私の方がいいよね?」
 雨音が恵美の言葉を濁す。真一郎は耳をそばだてて、今にも消えそうな恵美の声を聞く。マリファナの甘い香りが、二人の間を行き交う。真一郎が口を開けると、甘い香りが流れて無くなった。
「よくなかったら、ここにいないよ」
「‥‥そうよね。そうだよね」
 恵美のふくよかな胸が静かに波打つと、同時に大きなため息が漏れた。真一郎が恵美の頭をポンポンと叩いて小さく破顔すると、それにつられて恵美も笑った。
 笑い声だけが雨音よりも大きく室内に響いた。


 優香の目の前には美しく黒光りする拳銃がある。その隣にある金色の弾丸の表面が、優香の無表情を映している。
「‥‥」
 舞夜を抱き、恍惚に濡れた望の顔は、優香に嫌な感情を持たせた。あの顔は、昔自分を見下してきた人間と同じ顔だ。自分を犯す時に見せる、醜い顔。
 拳銃の隣に置いてあるブランデーの入ったグラスを手に取り、一口だけ飲む。馴れ親しんだ仄かに辛い感覚が、心地好かった。部屋には誰もいない。優香一人だった。雨音を消し去るかのように、鳥の鳴き声が聞こえている。その鳴き声は外からではなく、ステレオから流れている。
 十五才の時に初めて男性を知ってから、優香はいつかこうやって鳥の鳴き声を聞きながらお酒を飲みたいと思っていた。その時、周りには誰もいない。自分だけの空間の中で、自分だけの事をやる。薄暗い四畳半の天井の下で、知りもしない男に犯されたあの時から、優香はずっとこれを願っていた。
 優香はこんな顔に生んでくれた母に感謝していた。彼女が初めて物を見て、そして喋るようになった時にはもう、父という存在は彼女の傍にはいなかった。ただ、男に犯される事で金を得る母の姿だけが、子供の頃の彼女には印象的だった。それでも、母は優香に優しく接した。そして、小さな部屋の片隅で二人で抱き合っては優香の耳元でこう言った。
「あなたは幸せになりなさい。私よりもうんと幸せになりなさい」
 そんな母が病気で涙を流す暇さえ無い内に死に、優香は孤児院で十八まで過ごした。その孤児院の院長が、優香の初めての相手だった。醜く太り、人間としての魅力を全て無くした四十の男。
 十五の時に初めて経験したセックスは、ただただ痛くて悲しいものだった。しかし、その時、優香はある事を知った。体さえ差し出せば、男はすぐに金を出すという事。
 そして、成長し美しくなった優香は、死に物狂いで勉強して入ったある不動産屋の社長を、体で自分の物にした。母は金の為に体を売った。何もかも無くして母が手に入れた物が金だった。優香にとって世界とは、金だった。優しさではなかった。金だった。金があれば全て解決出来ると優香は思っていた。そして、本当に金で何もかもが解決出来た。人を何人殺そうとも、金で全てを揉み消す事が出来た。幸せをもぎ取る事が出来た。
「‥‥」
 それまでに交わった全ての男は、自分を卑下するような目で優香を見た。今でもその顔は忘れない。自分よりも低い所にいる娼婦。そんな目で、優香を見た。目の前にある拳銃で、もうとっくの昔にその男達を撃ち殺したというのに、その汚らしい目は頭から離れない。あの院長は泣きながら土下座をし、自分の足にしがみついた。優香は男に最高の笑みと憎悪に満ちた弾丸を送った。額から血を流し、目から油のような涙を流し、ミミズのような舌を出しながら、あの男は死んだ。
 なのに、あの顔は今だに優香の脳裏から剥がれ落ちていかない。あの顔を心から剥がす為に、望達のパーティーに出たのだ。院長達と同じように自分の足を掴もうとする者。彼らを殺して、そして自分は蝶である事を確認しようとした。なのに、剥がれない。
 望があの汚らしい院長に、そして舞夜が幼い頃の自分に見えた。
「‥‥」
 再びブランデーを口に含む。この味、今いる場所。全て自分一人で手に入れた。そして、自分はこれからも一人だ。どこにも群れる事の無い、虹色の羽を持った蝶だ。落ちはしない。誰に足を捕まれようとも落ちはしない。掴んだら、あの院長のように殺して落とせばいい。誰にも邪魔はさせない。
 鳥の鳴き声は終わる事無く続く。ふと顔を上げ、時計を見ると既に五時近くになっていた。もうそろそろ夕食の時間だ。今日の夕食は何だろう。美味しいものだといいな。そんな子供じみた事を思う。
 灰色の空が次第に黒く染まり、夜になってゆく。また、一つの夜が始まる。そう優香は思い、グラスに残ったブランデーを飲み干した。


 たった一つの暗黒の夜は、一瞬だけだが全てを呑み込む。数時間という一瞬。その瞬間に数億の人々が夢を見る。ある者は美味しい食物を食べる夢だろう、またある者にとってはいとおしい人と戯れる夢だろう。例えそれが夢の中だけの事であろうとも、見た者はそれを幸福に思う。
 しかし、冷たい檻に閉じこめられ、自由を失い、他人によって生かされている者は夢を見ない。夢というものが一瞬の儚いものでしかない事に、悲しみしか感じない。それが一瞬であろうとも、儚いものであろうとも、見れる事の喜びを知らない。夢を見る意味を失った者は、死んだように眠るだけだ。
 今日も誰かが夢を見ずに眠るだろう。重い目蓋の裏側の闇を見つめて眠るだろう。
 そして再び朝を向かえ、意味の無い生を感じるだろう。意味を問う暇も無く、惰性の中に溶け込んでいくだろう。
 だが“彼女”は違う。彼女は藻掻き苦しみながらも、誰かから夢を奪い取る為に、這う事をやめない。多くの人々がそんな彼女の手を踏み付けて歩くだろう。誰も彼女の事など見ようとしないだろう。それでも、彼女は這う事をやめない。
 彼女は、それしか知らないのだから‥‥。


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